野毛大道芸の作り方

 横浜の中央部にある中区、その中でも人口4千8百40人(日ノ出町地区を含む96年度)の小さな街が「野毛」だ。ノゲってあまり良いイメージの町名ではない。野毛大道芸実行委員会に他の都市から電話がかかってきた「もしもし、ヤモウダイドウゲイデスカ?」だって。ここはヤモウだったのか。やっぱりヒドイ所だった。ノゲも街がきれいになってきたが、まだニャンゴロゴロと猫がうろつく下町的なせこいところだ。野毛の表玄関が桜木町駅である。文明開化の明治時代は、桜木町が初代の横浜駅だった。そのうち東海道線がひかれ盲腸のように出っ張った横浜駅は不便となり、さっさと然るべき場所に移動して桜木町駅と名前も変わった。横浜駅前街であった野毛が、名前もローカルな桜木町駅になってしまった。「コンナノアリカ? ヒデエ落差ジャン」。これが野毛の街が食らった第一回目のパンチ。
大正時代の桜木町駅は京浜東北線の始発駅として生き残った。横浜港、中華街、伊勢佐木町に行くのに最寄り駅だった。ところが関東大震災で灰爐に帰してしまった。これは野毛だけではない、横浜全域、東京も同じであったが。
昭和に入って復興したが、次は戦争。そのうち横浜大空襲。またも 灰爐に帰してしまったが、今度は日本中がそうでありました。ここから野毛の街は逞しかった。桜木町駅前の野毛はにわかに闇市、バラックの飲み屋街に変身、横浜でアソコ(野毛)に行けば何でもあると言われた。酒が手に入らない、エチルアルコールを水で薄めたバクダンに呑ん平がとびついた。野毛は港湾に近かった。景気の良い三菱ドックは24時間体制で操業、夜勤明けの工員さんや港湾関係者が朝から呑んでいる活気のある野毛の町になる。いつの間にかバクダンやカストリ焼酎がハイボールやチュウハイに変わっていく。 そんな中で京浜東北線が桜木町より先に伸びた。喜んだのは伊勢佐木町、馬車道、元町、中華街で、終着駅ではなくなった桜木町の乗降客がその分激減し、駅前町の野毛は大打撃だ。おまけに三菱ドックはドッカに移転してしまう。「エッ!ほんまかいな」。このパンチもドスンと効いたね。そのうちもう一本の私鉄、東急東横線桜木町駅も廃駅になる計画が浮かび上がった。「ランドマークタワーのあるピカピカの新都市に行っちゃうんだトサ」「ハハ〜ン、こぎたねえ街とはおサラバなのか」野毛に落ち度はないのに何発もパンチを食らう。

このような流れの中で、街を何とか活性化しなくてはいけないと、1983年有志によって「のげ文化を育てる会」が設立された。
83年に設立された「野毛文化を育てる会」は野毛食堂の2階で月一回落語会を行っていた。会員に落語好きが多かったのだ。84年には、別に「野毛地区街づくりを考える会」が設立された。

84年、この二つの会が力を合わせ「春の野毛祭」を開催。露天画廊と大道芸大会を同時に行った。第2回は同年11月に行った。大道芸の方が人気が高かったという反省から翌年から大道芸だけに規模を広げて行うことに決定した。86年、第一回「野毛大道芸ふぇすてぃばる」が開催された。それから、今年2000年で24回を迎える。以上、ごく簡略な戦後「野毛」史

野毛大道芸はこうして始まった。

野毛には成田山の別院があり、その境内を中心に市が立ち、演歌師や放浪芸人が来た。つまり大正時代から昭和初期にかけて野毛では大道芸が出ていたという。96年に最後の演歌師と呼ばれた桜井敏雄さんは、大正演歌師の石田石松の愛弟子だったが、この野毛の境内で、ヴァイオリン演歌をやっていたと生前よく語っていた。野毛大道芸に出演することにこだわっていらっしゃった。このような歴史背景はあったものの、戦後は大道芸は行われていなかった。

この流れとは別に、十年間のフランス留学から帰国した芸人がたまたま野毛に住むことになった。パントマイムのプロ、イクオ三橋さんである。 ある日、イクオ三橋さんは野毛のスナック「パパジョン」に入った。「パパジョン」は20年間無休という凄い店で、忙しいのに関わらずマスターの島村秀二さんは「野毛の文化を育てる会」の落語会では献身的に働いていた。マスターから活動のようすを聞いたイクオ三橋さんは「街で文化を育てるのは大いに賛成」と意気に感じ、会員になった。それが翌年の大道芸と露天画廊の催しにつながった。

イクオ三橋さんの呼びかけで、パントマイム、寄席、サーカス芸人、パペットショウの人々が集まり、1985年「春の野毛祭」で大道芸を開催して好評、露天画廊の人気はいまいちだった。よく1986年から、大道芸だけが独立しイクオ三橋初代プロデューサーによる「野毛大道芸ふぇすてぃばる」が開催された。 出演者26人、観客数は3000人だった。出演者数が200を越え、数十万人の観客が押し寄せる現在の野毛大道芸の成功を考えると隔世の感がある。 もしも、「パパジョン」にイクオさんが入らなかったら・・。マスターの島村さんが声をかけなかったら、野毛大道芸は存在しなかった。なに、ちょっとしたキッカケってやつですナ。何事もちょっとしたことで始まるもんです。あんまり難しい理屈はなかったのだ。野毛大道芸が、なぜ発展したかは正直なところ分からない。「運が良かった」としか言いようがない。 「芸人さんをはじめ、スタッフや催しを支える人々がいた」ということに尽きる。街に人がいた。人のつながりの輪があった。人気のない、サバクのど真ん中で大道芸をやっても人は集まらず、成功しない。

人がいても宣伝は大切だ。野毛は宣伝がうまかった。野毛の餃子屋のあるじ福田豊は大道芸の仕掛け人だが、 元電通マンだ。福田豊がアチラコチラでおおぼらを吹きまくった。当時大道芸は珍しかったので、せこい街が一生懸命にやる姿にマスコミは好意的だった。ちょっと洒落たハマから取り残された野毛の町。だが、その街のにんじょうに惚れた少数のマスコミ人が好意的に取り上げてくれた。

18世紀〜20世紀初頭に発展し、人気のあったサーカスにしだいに翳りが生じてくる。サーカステントを張れば人の集まる時代は終わろうとしていた。経営もおおざっぱなままでは、資本主義の世の中では通用しなくなる。都市化が進行し、街や広場の管理も厳しくなり、テントをはる場所の確保も困難になってくる。人の集まりにくい郊外にしかテントをはれない。他の娯楽の発達、映画の登場、世界大戦の影響など、多くの要因はあったが、衰退の原因はサーカス内部にあった。サーカスの特別な訓練を要する技は、秘伝のモノであった。 サーカスファミリーで技を独占し、外部に流出することを恐れた。外部に漏らさないようにすれば、しだいにマンネリ化しサーカスはこうしたものだと言う形式が生じた。これがパターン化した伝統サーカスであり、音楽も出し物もどこも対して変わらないので観客は遠のいてしまう。

衰退が非道くなり、フランスでは1970年頃、政府の強力なバックアップによりサーカス学校が開設される。この一つに野毛大道芸の初代プロデューサーイクオ三橋氏が関わって、10年ぶりに帰国したわけだ。だから81年、野毛に現れた彼は古いサーカスの体質から離れた最先端の感覚を持ち込んだ。「サーカスで生まれ育った子供達」Emfant de la Balleがサーカスを継ぎ、また次第にマンネリ化したが、一方では演劇人、ミュージシャン、大道芸人、サーカス学校出身者による、新しいサーカスが70年代に出現する。「サーカス生まれでない人たち」Nouveau Emfant de la Balleの作った、過去にとらわれないユニークで新しいサーカスの登場である。たくさんの新しいサーカス(シルク)が登場したが、カナダの「シルク・ド・ソレイユ」、フランスの「シルクバロック」の芸人達が多数野毛大道芸に出演してきた。「シルク・バロック」の団長でもあるクリスチャン・タゲは現在新しいサーカスプログラムを作っているので2回ほどお休みしているが、毎回野毛に出演、彼の影響は絶大のものがある。タゲも演劇畑出身のサーカス芸人である。 野毛大道芸は創設されたときから、これらの新しいサーカス運動の波をいろいろな形で受けてきたといえる。 それによって野毛大道芸は他のよりユニークな存在であり得たのだ。

野毛には多様な人が集まる。その人の輪から、過去にも色々なものが生まれた。財力には恵まれない街だが、人材には恵まれた。金はやってこなかったが、ちょっと癖があってパワーを秘めた人変な人たちがたくさん街にやってきた。たいがいこういう人には金がないから、金がないなら人を頂いちゃおうと、街の方が受け止めた。「金がないなら体を出せ、体がないなら知力を、知力がないなら表現力を差し出せ。」と言うわけだ。 生き馬の目を抜く野毛の商人に、ぬかりはない。ヒドイ所だよ、ここは!ただ可笑しいのは、目をつけられたカモがそれぞれ喜んで差し出しちゃうってことだ。このように、野毛大道芸は、どこぞの権威だとか、大きな県とか、行政がやっている由緒正しい催しではない。十数年の伝統がある・・・・などのつまらない権威とは無縁だ。いつも新鮮であればいい。催しそのものが、怪しげで大道芸的だ。いい加減だし、いつ潰れてもおかしくない危うさがある。セコい街がやっていることなので少々の失敗は恐れることはない。保守にまわらない限り、怖いもの知らずの野毛大道芸は、爆走する。

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